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朧月夜に

不知足斎

   

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阿倍仲麻呂の帰国

昨日,古代東アジア海域史概説なる授業で,
阿倍仲麻呂の話をしました。
有名人なので,いろんな資料があるかと思いきや,
さほどないようで,いろんな本を参照しても
結構意見にばらつきがあります。
その中で,自分が至当と思われる話をしましたが,
やはりその研究者が日本史を専門とされている
ことが多いので,以外に中国の事情を加味していない
ことに気付きました。
たとえば,仲麻呂の帰国を願ったことに関してですが,
望郷の念や母を思ってなどの説明がなされます。
たしかに王維の詩序によればそのように書かれています。
しかし彼が帰国を志し,遣唐使船に乗り込んだのは
753年(天平勝寶年度:大使藤原清河)です。
この遣唐使は前年に入唐し,753年の元会儀礼に参加し,
有名な争長事件を起こした時でした。
仲麻呂もこの前後に遣唐使船の到来を見聞したと見られます。
そしてこのころ,中国では李林甫が死に,
安禄山と楊国忠の反目が表面化していました。
仲麻呂は儀王友か衛尉少卿に就いていたとされ,
宮中の事情に通じていたかもしれません。よって,仲麻呂は
中国での政治闘争による社会不安を機敏に感じて,帰国を
願ったのではないでしょうか。ただ,その船は帰国を果たせず,
ベトナム北部に流されてしまいます。そして仲麻呂が藤原清河と
長安にもどったのは755年とされます。この年は,まさしく
安禄山が反旗を翻し,12月には洛陽を陥落させていました。
とすれば,仲麻呂などは玄宗とともに四川へ落ち延びたのでしょうか。
このことも案外これまで触れられていません。
仲麻呂は上元中(760-762)に鎮南都護となっています。
時に安禄山は息子に殺され,その部下であった史思明が反乱の音頭を
とっていた時期です。もし任地に赴いてたとすれば,
中原での戦に巻き込まれなかったようです。
その後,仲麻呂は表面的には沈静化した代宗朝の大暦五年(770)に
亡くなったとされます。
こうしてみれば,仲麻呂は唐朝がまさしく大きく転換する時期に直面した
人物で,つぶさにその動向を眺めていたでしょう。
その伝記が残っていれば,円仁『巡礼行記』のように,安史の乱を伝える
重要な資料となったと考えられます。
このようなことは,すでにどこかの本で触れられているかもしれません。
だとすれば私の勉強不足ですが,ちょっと気になったので,
ここに駄文を連ねました。
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